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変哲塾11-12月 振り返り

変哲塾11-12月 振り返り

ためしに、車椅子で駅まで行き、電車に乗って、映画館で映画を観ることを想像してみると、どんなことに気づくだろう?

今回はそんな問いかけから始まりました。

 

まず駅に行くまでの歩道が狭い、駅ではエレベーターがあるからホームまでは行ける。でも、電車に乗るのに介助してもらわないといけない。鉄道会社によっては事前に連絡しないといけない。電車の中に車椅子用のスペースがあるかもしれないけど限られているし、そこに人がいたり混んでいたりすると気後れする。映画館に行っても、車椅子用の席があるのかわからない。段差も怖い…

 

鉄道会社や映画館を批判したいわけではないが、車椅子で生活すると、いわゆる健常者には気付きにくいバリア (障害) がたくさんあることに気づく。

 

では、なぜこんなことになっているのだろうか?

これが、今回の変哲塾 (11-12月) の第1回目のテーマだ (全4回)。

マジョリティ (社会的強者) には気付きにくいが、マイノリティ (社会的弱者) にとっては大きな問題が多数存在する。

 

車椅子Yutuberが映画館での不便を発信したら炎上したそうだ。「助けてもらって当たり前と思うな」、「自分勝手」などとバッシングを受けた。

 

不便なことを不便と言うのは、「自分勝手」なのだろうか?

発信したのがいわゆる健常者だったら、どんな反応だったのだろうか。

 

世の中には様々なマイノリティが存在する。

障がい者、女性、子ども、民族、宗教、国籍、肌の色、髪の色、左利き…

 

マイノリティの「声」は届きにくい。

世の中がマジョリティを基本にデザインされていることが多いから。

差別の意識はなくても、見落としていることは多いのではないか。

 

少し目を転じて世界史を見てみると、ホロコーストやアパルトヘイト、日本の同和問題など、マジョリティが悪意を持ってマイノリティのマイノリティ性を利用していることもある。

 

マイノリティの感じる不便や理不尽は、平和学の観点からは「構造的暴力」と定義される。

差別、貧困、抑圧などが生まれる(あるいは意図的に生み出す)社会構造のことだ。

 

そもそも車椅子ユーザーが不便を感じるのは、車椅子に乗っているからだろうか?

それとも、(例えば)段差があるからだろうか?

 

ドアノブや駅の改札はどうだろう?

左利きの人には不便ではないか?

 

日本は建築物のバリアフリー化は進んでいると言えるかもしれない。

都会のエレベーターの入り口や通路は段差がないことが多い。

歩道の狭さや映画館での席など課題はまだあるが。

 

しかし、電車で席を譲る人が少なかったり、前述のように声を上げた人に過剰なバッシングが起こるなど、精神的な面では未熟さも感じる。

 

「困ってる人がいても知らんぷり」する文化と、「困っている人がいたらできる範囲で助ける」文化とどちらがいいのだろうか?

 

日本は同調圧力が高いとよく言われる。

これはマジョリティを優先する考えと親和性が高い。

マイノリティの声は拾われにくい。

周りと違う意見を言って、たしなめられてしまった経験はないだろうか。

 

誰にでもマイノリティ性はある。

人は全員同じではないのだから。

 

マイノリティの声に耳を傾けることは、結局は自分自身が暮らしやすい社会を作っているという理解を拡げていきたい。