変哲塾2-3月

今年度の変哲塾の全日程が終了した。
2-3月は、「多文化共生」というテーマで学んだ。
「多文化共生」は、最近耳にすることが多くなっていると思う。
日本に外国人が増えているからだ。
就労、観光などで外国人が日本に訪れたり移住してきたりと、“外国人”と接する機会が増え地元の日本人とのすれ違いが生じている。
“外国人嫌い”と言われるほど、日本人は長い間外国人の受け入れに消極的だった。
しかし、主に少子高齢化による人手不足が理由で外国人材を受け入れている。
多文化共生の取り組みは各地で行われていて、お互いの習慣を理解したり、「やさしい日本語」という取り組みも広く知られるようになってきた。
しかし、目を覆いたくなるようなことも起こっている。
代表的なのはヘイトスピーチだ。
クルド人、中国人、在日コリアンなど、次から次に標的を変えて、日本における社会的弱者(マイノリティー)である“外国人”を攻撃している。
そこまであからさまな差別でなくても、日本人同士で垣根を作ってしまい外国人を“ウチ”には入れないという話はよく聞く。
以前よりも働いている外国人を目にする機会は増えたが、まだまだ国際的な社会とは言えないだろう。
もちろん、国際的な社会が絶対に正しい社会だなどと言う気はないが、真の意味でグローバル社会に参加できない理由の1つは、日本人とそれ以外を分けてしまう文化に依拠している気がする。
国際社会のことをどこか対岸の火事と感じているのではないか。
日常的に“外国人”とも分け隔てなく関われる環境があれば、もう少し国際感覚を育めるのではないだろうか。
前半では、今までの学びと絡めながらそんなことを考えた。
後半では、海外に目を向けた。
アメリカで起こっているヘイトクライムやトランプ政権によるDEI攻撃、多文化社会でもあるEUのことについetc.
アメリカでもヨーロッパでも、多文化社会において共生と排斥の間で揺れ動いている。
スウェーデンで起きた移民同士の殺人事件を、スウェーデンの司法ではなく移住者コミュニティ内の長老が裁定してしまったり。
どこまで「共生」できて、どこまで「統合」を求めるか。
また、移民はどこまで受け入れられるのか。
人道的見地からは移民は受け入れるべき。
“EUにとって人権は、その発足とともに明確に規定された基本理念である”*1 。
しかし、移民や難民の受け入れには常に経済、政治問題も付きまとう。
世界中で右翼勢力が台頭している背景には、労働者の不満がある。
「多文化共生」というと、地域社会における異文化理解の文脈で語られることが多いけど、もうちょっと多角的、多層的に考える必要があるよねという話し。
〇〇人とかいう大きな枠で考えてしまうと見えにくくなるけど、もちろんそこには1人1人異なる人がいる。
1人1人を尊重しようとすれば、多文化共生は当たり前。
ただし、経済問題や政治問題がつきまとう。
どういう社会で生きていきたいか、1人1人がよく考えて話し合っていけたらいいなと思う。